「勇気凛々」りんこのブログ

長年勤めた外資系の会社をいきなり退職して会社員脱出!日々思ったことを書いています。

恥ずかしがりやのお花

「この花は恥ずかしがりやだで。こ~いう場所がええんだわ。」

植木屋のSさんはそう言って、私の実家の庭の隅、塀の支えの影になって家の中からは勿論、庭から土手に体を乗り出さないと見えない場所に、その植木を植えていった。

私の両親が、いわゆるマイホームを山を切り崩して作った造成地に建てた時、庭全部をSさんにお願いしたらしい。私たち子どもは、姉は小学校3年生、私は幼稚園の年長組のときである。

ほぼどこからも見えない植木にお金を払うなんてうちの両親も変わっている。

私の実家はある企業のもつ社会人大学の横にあり、東西に細長い庭と大学との間には雨水が流れる深い大きい溝がある。大学の場所は家よりも高くて、フェンスの向こうにはキョウチクトウと大学構内のアスファルト、そして青空が見えるばかりである。

「恥ずかしがりやのお花」

私たち姉妹は、塀の支えに隠れて見えないその花木を、ずっとそう呼んでいた。

私たちは、よく暗くなるまでその庭で遊んだ。友達とゴムとびをしたり、庭に埋めてある水甕の中の金魚にエサをやったり、あとで生まれた弟を小さなブランコに乗せたり。そして春先になると、甘いそして強い香りが辺りにただよってくるのだ。姉と私は、深い溝に落ちないよう気を付けながら、「恥ずかしがりやのお花」の場所をのぞき、紅白の小さな花が咲き乱れているのを見つける。そして「ママ、恥ずかしがりやのお花が咲いてるよ!」と報告するのだ。今でもその花が、西日にこうこうと照らされて咲いているのが目に浮かぶ。

 

新興住宅地に住むこどもの私は、庭や学校の花壇の花~人が見て楽しむ花しか見たことがない。こどもの時から、何でも擬人化してしまうところが私の悪い癖である。その私にとって「誰からも見えない、知らないところで咲き誇る花」は大きな驚きを与え、それからずっと心の奥に小さな暖かい火をともした。そして、あまり深く考えないまま、その花木は、「人から見えないところが好きなのだ」と思っていた。

 

その後、私は何度も引っ越しをして、ある日、近所を歩いていて、あるお家の玄関にその花木が植えられているのを見てびっくりした。恥ずかしがりやのはずの花が、堂々と玄関に植えられている!

 

植木屋のSさんは、どうしてあんなところに花木を植えたのだろう?どうして「恥ずかしがりや」と言ったのだろう?

Sさんには、こどもの私たち姉妹が、その強烈な甘い香りで見えないお花をのぞきに行き、母に報告する姿が見えていたのではないか?こっそりそれを楽しんで植えて行ったのではないか?

でももう、確かめるすべはない。

 

毎年、学生時代の友人と、梅ヶ丘の梅園に梅を見に出かける。美登利寿司でお寿司を食べ、梅を楽しむ。梅園には植木市が並ぶのだが、今年はそこで「恥ずかしがりやのお花」が売られているのを見つけた。手のひらに収まるくらい小さな植木だが、ちゃんと花をつけている。ひとつ150円くらいだったと思う。その花を見つけて、香りをかいだらもう、こどもの頃の思い出があふれてきて買ってしまった。

 

「恥ずかしがりやのお花」とは、沈丁花である。今はベランダの目立つ場所に置かれて、私が世話をしている。