「勇気凛々」りんこのブログ

長年勤めた外資系の会社をいきなり退職して会社員脱出!日々思ったことを書いています。

戦争体験 2

フィリピンで捕虜になった祖父は、

英語ができたため、捕虜収容所で通訳をした。

アメリカ兵は祖父に時々たばこをくれ、

たばこを吸わない彼は、他の捕虜にあげた。

 

食糧に不足し、現地住民の畑から食料を盗む捕虜がいる。

住民がアメリカ軍に伝えると、

目撃した住民の前を、ひとりずつ歩かされる。

「こいつだ」と指をさされると、銃殺。

 

住民から見ると、日本人の顔は似ているから、

それがあっていたのかどうかわからない、

と祖父は言った。

祖父は当時にしては背が高く、

色白でわしばな、

特徴的な容貌だったため、

そこでも助かった。

 

祖父は、また、そこで日本の地図を

見せてもらった。

鹿児島のところを見たら、その地図には

家の裏の細い細い路地までもあった。

それを見た時、あぁ、こんな田舎の詳細の情報を

アメリカは持っている。

自分の家族はもう全員死んでいるに違いない、

と思ったそうだ。

 

また、別の時に、将校から

あなたの家はどこか、と聞かれ

「鹿児島です。」

と答えたら、将校の顔がくもり、

「もしかしたら、あなたのご家族は

だめかもしれない。」と。

帰国してから、広島の原爆を知り、

あの時の将校は、自分の鹿児島の発音を

広島と間違えたのだ、と気づいた。

 

帰りの船は、ひとりは医師をのせる

決まりがあったため、

医師を一度にのせることができず

祖父の帰国は遅くなった。

しかし、先に帰国した日本人が、

家族に、祖父が生きていることを伝えた。

 

ただし、「今度の船に乗っている」という

確かでない情報があるたび、

ごちそうを作って待っていると、乗っていない、

ということが何度もあったが。

 

帰りの船では、

戦争中にさんざん殴られたり

いじめられた部下たちが

上司だった男を皆でつかまえ、

海に放り込んで殺す、

ということが起こった。

戦争に負けた

帰りの日本兵の中に統制はなく、

階級など存在しなくなったのだ。

 

祖父が帰国すると聞き、

母は港に迎えに行った。

祖母や叔母(母の妹)は、準備で家に残った。

しかし、祖父らしき人がいない。

仕方なく家に帰ると、祖父はすでに帰っていた。

わからなかったのは、

出征中の心労や栄養不足のせいもあるだろうか、

髪が全部なくなっていたからだ、と知る。

 

戦争中よりも敗戦後のほうが、食糧事情が悪かった、

と母は言う。

母の年代に「かぼちゃのお味噌汁」

が嫌いなひとが多いのはそのせいだ。

かぼちゃは、やせた土地でも実るのだろうか?

 

戦後、デパートで子供服のセールがあり、

行くと、アメリカからの古着。

しかし、その可愛らしさに驚いたと母は言う。

 

戦後しばらくたってから、

アメリカ軍が祖父をさがしてきて、

捕虜収容所での通訳の仕事について

給料を支払ってきたという。

戦後の貧しい時期、

そのまとまったお金は

家族を助けたが、

とにかく祖父は、

捕虜の仕事に給料を支払う、という

アメリカ軍の考え方に驚いたらしい。

 

 

 

 戦争体験者が、戦争について話したがらない理由が

わかる気がする、澤地久枝氏の本

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