「勇気凛々」りんこのブログ

長年勤めた外資系の会社をいきなり退職して会社員脱出!日々思ったことを書いています。

戦争体験 1

私の母方の祖父は、すでに20年以上前に

亡くなっているが、戦争に行っている。

私が中学生の夏休みの社会の宿題で、

「祖父母の戦争体験を聞いてくる」

というのがあった。

 

鹿児島の祖父母にはがきでお願いすると、

病気で半身不随の祖父の口述を

祖母が書き留めて送ってくれた。

それ以外に、母が祖父から聞いた話もある。

祖母もすでに亡くなっており、正確な年などは

もうわからないが、

8月15日を前に、知っていることを全部

ここに書き留めておきたい。

 

祖父は医師であった。

子どもの頃、「おじいちゃん戦争に行ったのね。

軍医なのね?」

というと、母が顔色を変えて「軍医ではない」

と言った。

つまり、職業軍人ではない、ということだ。

医師が普通に徴兵され、医師の仕事をした、

ということらしい。

”顔色を変えて怒る”ことがなぜなのか、

今は何となくわかるけれど、ここではふれない。

 

招集された時、祖父はすでに30台半ば。

「自分が招集される、ということは、

この戦争はだめかも知れない。」と言った。

つまり、30代半ばの人に招集がくる、ということは

招集されて行った若者が次々と亡くなっているから、

ということ。

当時の報道は日本の連戦連勝を伝えていたため

国民はそれを信じていた、と思っていたが、

うすうすわかっていた人たちはいた、ということだ。

 

まだ赤ちゃんの3番目の娘は心臓が弱く、

その子を抱きながら、

「あぁ、この子は、自分が帰ってくるまで

生きているだろうか?

もう会えないかも知れない。」と言った。

その子は祖父が出征中に亡くなった。

 

送られたのは、フィリピン。

九死に一生を得ている。

 

車に乗り遅れ、仕方なく徒歩で移動。

後で、その車が攻撃され、乗っていた人全員

亡くなったことを知る。

 

戦う、というより、ジャングルの中を

飢えながら逃げる毎日。

病院が攻撃されると、

もう弱って自分で走ることのできない

看護婦(旧呼称)さんを、背負って逃げる。

けれど、看護婦さんは、

「もう、だめだと思う。

私を置いて行ってください。」

と祖父に頼んだ。

地面に下して、横たえるとハエがたかる。

けれど、それをはらう体力がすでにない。

しかたなく置いていく。

 

服や靴がだめになる。

あちこちにある死体から服や靴をもらい

それに着かえて逃げる。

 

逃げて、逃げて、疲れ果て

川べりでぐったりと倒れこみ、

眠ってしまった。

起きると、手に何かがあたる。

そこには日本兵の死体の山があった。

 

どのように降伏して捕虜になったのかは

抜け落ちて聞いていない。

(あぁ、もっと聞いておけばよかった。)

その後、捕虜生活が待っていた。

 

一方で、残された鹿児島の家族のほうは。

祖父の病院は軍隊に接収され、

家族は6畳一間で生活する。

 

そこで母が見たのは、

若い将校に殴られる中年の男性。

当時、中年の男性(当時の戦法からして戦力でない)

の仕事のひとつは、飯炊きだった。

うまく出来なかったのだろう。

 

その頃父は東京にいた。

父方の祖父は、招集されていない。

おそらくは、体格が小さいからで、

当時は「恥」だったろうが、

沢山の人がいわゆる「犬死に」した状況では

後からはよかった、と言える。

 

父から戦争のことを聞いたことはほとんどないが、

空襲の時、B29が隊列を組んで飛んで行くのを

よく見たという。

父の結核の転地療養のために越していた杉並区は

当時は自然と田畑ばかりのところであった。

だから、空襲を免れており、

今でも道路が当時のままで、

細い路地が細かく入り組んでいる。

また、食糧不足の為、家で鴨を飼っており

男子の彼が、つぶす役で、

「毎日えさをやるから、鴨はぼくになれていた。

つらかった。」

とだけ。

 

 

 戦争体験者が、戦争について話したがらない理由が

わかる気がする、澤地久枝氏の本

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