「勇気凛々」りんこのブログ

長年勤めた外資系の会社をいきなり退職して会社員脱出!日々思ったことを書いています。

「習い事の発表会へのご招待」の憂鬱

以前より、母がこぼしていた、「知り合いからの、習い事の発表会へのご招待」。

楽器とか、ダンスとかを習っている知り合いから、発表会があるからとお知らせをもらって行くのがいやだというのだ。小さいこどものピアノやらバレエやらの発表会ならば、下手でもとにかく可愛いから、自分の時間を使って行ってもまぁまぁ仕方ないと許せる。しかし、下手な大人の発表会は、手ぶらでいくわけにもいかず、ちょっとしたお礼はあとからいただくにしても、目や耳がすでに肥えている自分にとっては苦痛だというのだ。また、母は発表会があるような趣味を持っていないため、「お互い様」でもない。出費がかさむだけである。

暇な老人がそう言っているのであるから、まだ現役で働いている自分にとっては、何しろ時間が大切で、そのために時間とエネルギーをねん出するのは痛い。もちろん私自身も発表会に出るような趣味もない。断ればいいではないか、と思うだろうが、「○○日、あいてる?」から聞かれてしまった場合には困る。あいているのに行かないうまい理由を見つけなければならない。その方が好きなだけに、困るのである。

例えば私は音楽についてそれほど詳しくない。だから、例え「そこそこ」うまかったとしても、技術がさっぱりわからないから、下手にしか聞こえない。コンサートにも時々は行くが、一流の奏者に限る。そうでないと、全く感動しないのだ。

社会性を身に着けているがゆえに、「一流のプロの演奏しか行かないことにしていますので。」と本当のことは言えないではないか。

例えば音楽なら、自分で楽器を演奏しているのなら、自分の演奏のレベルもわかるだろうし、それが、家族でない他人の時間を割いてきてもらうものなのかどうか、わからないのだろうか?というのが私の純粋な疑問である。

実は、知り合いに歌も楽器もとてもうまい方がひとりだけいるが、その方は「行きますよ!」と言っても決して知らせてこない。趣味レベルでない人はさらに上を見ているので、自分はプロレベルでないからとわかっているのだ。

ある程度大人になったら、お金を出して、一流のものだけを見聞きしたいと思うのは私だけ?

林真理子さんのエッセイに、彼女が日本舞踊の発表会に、自分のにきていただくのだからと、いいお土産を準備しなきゃ、と書いている。さすが真理子さん。著名人の真理子さんでも、しろうとの発表会に時間をさいてくる人への配慮をしているのだ。下手でも著名人ならば話のたねにもなるが、例えば私のような一般人の場合、現役で働いてる人たちの貴重な時間を考えたら、まず呼べないし、どうしても席を埋めなきゃとなっても、こども関係で発表会に行ってあげている「お互い様」の家族以外は呼びませんね。

習い事の発表会に呼ぶのは、「お互いに発表会がある人同士だけ」あるいは「家族だけに限る」ということを常識として一般化してほしい。